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作田啓一/激高老人

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旧BC出版ウェブサイト(2013/6/24リニューアル、2021/3/31閉鎖)にてのポスト

 

2014-06-27ⅰ 真夏の夜の夢

いろいろな人に援けられて、思いもかけず長生きをしてしまった。何遍かの人生の中、山口の4連隊に所属していた初年兵の拙者は、松尾見習士官に引率され、近郊にある湯田温泉へ向けて行進していた。小肥りのこの見習士官は、当番の時はよく、この中原中也の故郷である温泉での入浴に我々を連れて行った。「万だの櫻か襟の色」ザックザック(靴の音)、「花は吉野の何とかで」ザックザック、「何とか何とか何とかで」ザックザック、「敵はいかに強くとも」ザックザック、「散兵戦の花と散れ」ザックザック。見習士官が音頭を取り、我々はそれに続けて合唱しながら行進していた。のどかな一日であった。時期ははっきり憶えていないが、日々の使役に派遣されていた拙者は、倉庫の整理に派遣され、重い荷物をよろめきながらかついでいると、鬼のような軍曹に怒鳴りつけられる日もあった。それらの日々に比べると、湯田温泉行きはあまり入浴が好きでない拙者にとっても、のどかな一時であった。そう言えば、豚の飼育で時々一緒になったあの同僚は、広島師団への転属を喜んでいたが、やがて原爆に見舞われたことだろう。その後、彼はどうなったのか、知る由もない。「万だの櫻か襟の色」ザックザック。石破によれば、自衛隊が国防軍に変わったら、自衛隊では何年かの懲役にとどまった命令違反者は、国防軍では軍法会議で死刑を宣告される、と言う。拙者が4連隊にいた頃は、どうであったのか知らないが。ともかく恐ろしいことだ。「万だの櫻か襟の色」ザックザック。

(山口の4連隊はおそらく激高老人の思い違いで、正しくは42連隊)

 

 

2014-06-27ⅱ 追想

私は今、92歳半くらい。あと2年ほどで父が亡くなった年になる。父に連れられて下鴨膳部町の家から下鴨神社の東側の道(泉川通)を通り、葵橋(加茂川にかかる橋:現・出町橋)まで散歩した。そこ(今は広場)に杵屋食堂というレストランがあった。私はチキンライスを取ってもらい、こんな旨いものはないと思った。近所には映画館があり、2階の座席で冬は火鉢に手をあぶりながら、3本立の時代劇を見た。嵐寛寿郎の長い顔が印象的であった。そのコースは当時父が勤めていた大学へ通う道筋であった。

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